睡魔×寒さって素晴らしいコンボですね。
おかげで出たい布団から出れずに、もう2時間経ちました。
おはようございます(12時)
さて、今回は「国際協力論」という講義の課題であった、【貧乏人の経済学】という本を読んでみての考察を置いていこうと思います。
既にレポートにまとめたことを再度書いてるようなものなのですが…。
多分ほかの受講生とは異なる、独特な視点から今回のレポート兼記事を書かせてもらっています。
商学部に属していて、私自身はゲームに関する研究をしようとしているわけですが、ゲームそして娯楽というジャンルは貧乏人達にとってはどういう部類のものなのか、まず貧乏人達にとって娯楽という概念があるのか、もしあるならばどういうものなのかを考えていきました。
ここでいう「貧乏」の概念とは、生活水準でいうと日本円で一日の生活を120円以下で過ごしている世界中の人々のことを指しています。
よく日本で耳にするのは、平均以上の生活が出来ている人が娯楽をすると言ったり、なにかの褒美で年に数回やるとか、そういうことでよく娯楽という言葉を聞きますね。
私自身、娯楽は大きくふたつに分けられると思っています。
ひとつは、俗にパーティゲームと言われる、楽しむこと、ワイワイするためのものです。一般大衆向けのいわゆる「遊び」に分類されるものです。
もうひとつ、「勝利」を楽しみとする娯楽。
こちらが今回、貧乏人の経済学の中に私が取り入れることの出来る娯楽です。
普通のゲームでも勝ちにこだわる人は多くいます。
勝つことが楽しみである、それは負けるという概念があって成り立つ訳ですが、そのリスクを背負ってでも勝負をして相手に勝つという快感はなかなか普段味わえないものです。
さて、これがどういう風に経済と結びつくかと。
結論を先に言ってしまうと、【ギャンブル】です。
勝ち負けを競う娯楽がギャンブルだけではないことは確かだが、ギャンブルほど経済を回すものは無い。
現在のテレビやニュース、国より大きな地球規模で考えられる政策などは、今、困窮している人達をすぐに助けられるものではありません。
今後何十年かをかけて徐々に生活に安定をもたらし、水準を上げていくとされています。
果たしてそんなことが上手くいくのでしょうか。
発展途上国やそれより下の貧困国が、私たちの「現在の」水準に達した時、私たちの「未来の」生活水準はどうなっているでしょう。
人それぞれ想像の種類は何パターンかあるかもしれませんが、結局、差はそう簡単には縮まらないはずなのです。
私はそれは今生きている人達にとっては、偽善に過ぎないと考えています。
だって、いくら助けを投げかけられても実際に助かっていないのが現状だから。
じゃあ目に見えている人達をどう助けるか。
【娯楽】
まず楽しみという場所を与える。
第1前提に日本人たちのギャンブルのイメージはお金を浪費する、治安が悪いだの色々な偏見や差別があるかもしれません。
だからカジノが合法化されていない現状。
違う、そうじゃない。()
なぜ、禁止されているギャンブルが無くならなかったり、海外では盛り上がったりしているのか。根本を考えてない。
理由は簡単。「楽しいから」です。
まずは楽しさ、そこにお金が絡んでくるのは必然的。
その魂胆を理解し得ない人々たちは損の塊。
世間一般が好まないような風習に、ただただ混ざって非難をあげているだけ。
何が楽しいのやら。
さぁ、貧乏人達にとっては命懸けのギャンブル。
しかし、夢もそこには置いてある。
もしそこに裕福だが、ギャンブルを楽しみに来たような輩がきたら…。
そりゃあ命懸けと隙だらけの人じゃ、真剣さが異なる。
全然、形勢逆転があり、ゲーム開始前までは綺麗な水さえ容易に手に入れられなかった人が、ジャラジャラお金を持って、その施設を出ていくことが可能なのである。
これは一攫千金。
夢がその場で、自分の力で、その日に叶ってしまう。
ただ、この人達はなけなしの金を、命に関わる生活のための金を、楽しむ為に、夢を追う為に賭けることが出来た人達だ。
こうすることで目の前の貧困者をただ救うだけでなく、裕福にすることさえできる。
あとは、裕福でボンボンな肥えた貴族たちと生活に命懸けな貧困層をカジノで繋ぎ合わせるコネクションをどうにかするだけだ。
経済学的には長い目で見る必要があるのかもしれない、しかし、長い目で見なければいけないという決まりもない。
この世界はゲームひとつで変わる。
お金がゼロでなければ。
1円でもあればそれは参加権だ。
キミ達はそれで夢を掴むことが出来る。
【さぁ、ゲームを始めよう】