あたまのなかみ。

※全て個人の見解です。どんな意見でも貰えたら喜びます。基本→人狼ゲームについての考察。稀に→ふと思ったこと。

思考の量が表すルーティーンの幅の話

どうも、こんばんは。夜中ですね。

 

朝0~3時までを【未明】って用語で決められているらしいですね。

 

昨日この問題がクイズで出たんですが、押せなかったやつです。(復習)

 

さて、今回は「思考の量が表す、ルーティーンの幅の話」というタイトルで話をしていこうと思うのですが…。

 

何だこの長いタイトルは…。

しかも何か抽象度高めで想像出来ん…。

 

と思う人は少なくないはず!

 

ただ、そう思えた貴方達には読む価値のあるものかもしれません。

 

逆に何も考えず、「ふーん、こんなのなんだねー。」でここまで来た人程、はっと気付かされたりするのかも。

 

これを書こうと思ったのは昨日のゼミで学んだことをまとめ、且つ自分なりの意見を書かせて頂こうと思ってこれを書いてます。

 

まぁ、関係の無いことかもしれませんが、私がこのブログを始めたきっかけは、自分の頭の中の整理をするため、そして、自分の中ででてきた疑問に自分なりの答えを文章に書き起こして記録するため、のものです。

 

 

そして、難しそうなタイトルにサブタイトルを付けるなら【自分を持つ為に必要な事】という感じですかね。それでも何か抽象的なものには変わりないですが…。

 

 

ここから本題にぼちぼち入っていきますね。

 

 

まず、ここで言うルーティーンとはなんぞや?という所からスタートしましょう。

 

シンプルに皆さんが日常でほとんど無意識のうちにしている習慣になっていることを指しています。

 

例えば、自転車を漕ぐことをイメージしてください。

 

漕ぐ際にある程度、スピードがついていたら漕ぐのをやめていたりしますよね。慣性に任せているというのは、漕がなくても進んでくれる、という事象を頭の中で無意識に判断しているんです。

 

でもどうでしょうか、もしそれがルーティーンじゃなければ?

 

ルーティーンじゃないからといって、別に困るといったものでもありません。

しかし、漕がなくてもいいものを漕ぎ続ける必要ってないですよね。

 

知識があればそれは解決されるんです。

 

ここからは知識や思考の量というワードについてですが、思考の量とは一体?って所ですね。

 

「思考の量」とは、自分が物事に対してどれほど考えて行動しているか、というものです。

 

考えるというのはどのようなことか。

 

それは自分が行うことについて疑問を持つ、当たり前を探求する、といったところです。

 

なんか難しいですね。

 

人が疑問を持つ場合って、自分が躓いた時や欠落があった場合なんですよね。

 

その事象がなぜ起こるのかというと、その人が持っている知識と現状起きている事象を比較し、その善し悪しを決めることで生じるものなんです。

 

私たちのゼミは「思考力と発想力」を育んでいくという目標設定です。

 

物事に対して様々な疑問を持てる、というのはその人にとっては最大の強みなんです。

 

よく集団心理などで見られる傾向ですが、多数大勢がやっている事だから、それは正しいと思うので私もそれをやる、というケースをよく目にします。

 

私はそれがとてもつまらない人間だな。

そんなんで楽しいのか。

自分がないのか。

と、思って仕方がないです。

 

先生が言われたことの中にごもっともな意見で、私に刺さるものがありました。

 

基本、思考の量が多い人間は考えがひねくれたり、ねじ曲がったりしてる奴ばかりだ、と。

 

正直、自分が素直である事は人生の2割程度だと思います。

 

まぁ、しかしねじ曲がってるだけではやはり上手く生きていけません。

何が必要かと言うと、良い意味での二面性を持つこと。

 

【素直×卑屈】っていうやつですかね。

 

別にここで言う卑屈は悪い意味で言ってませんよ。考えがねじ曲がってるってことです。

 

さて、ここからは今まで集団の一部でしかなかった人達が、どうやれば卑屈になれるかを教えて行きます。

 

簡単です。

 

あらゆる物事に対して、疑問を持ち、考え、自分なりの答えを出すのが一つ。

誰かが何かを話したことについて、それが正しいと鵜呑みにせず、レスやコメント、批判をしてみるのが一つ。

 

自分の意見というものを持つこと。

 

集団に埋もれた生活で、その人の波に飲まれて生活している人達は既にバンドワゴン効果に毒されていて自分を持たない。

 

そこから抜け出すのが第1歩目だと。

 

するとまぁ、考えるっていう事象が当たり前になるんです。

これでルーティーンが広がるんですよ。

 

なぜなら、物事おいての最適解、情報が人より格段に上だからです。

 

私が住んでいる界隈のせいもあり、疑ってかかるのが当たり前という精神は既に昨年身に付いたこともあり、私自身はとても効率的に快適さを手に入れていると感じています。

 

それでもまだまだ生きやすさの追求はしていきますが。

 

第2歩目は、「問いを立てる技術を磨くこと」、「問の量を増やすこと」の2本です。

 

ここからは、途中で話した素直さと卑屈さのバランスを取りながら、自分で試行錯誤してレベルアップしてください。

 

その時はもう、既に自分を持ってるはずですから。

 

私からのアドバイスがひとつあるとするならば、私自身は疑問を持つという考え方よりも、【仮説を立てる】という考え方をしています。

 

疑問を持つだけでは少し物足りないって感じですね。

 

仮説を立てて筋道をしっかり立てながら作っていくと、自ずとそのルートに対する答えが出てくるものなんです。

その仮説はひとつの疑問点から1個だけとは限りません。

 

ひとつの疑問点から何本もの仮説が出てきます。

その中で自分が思う最適解を選べるようになれば、その人の色が見えてくると思います。

 

 

ちょっと難しい話でしたね。

 

 

なんでこれを先生が取り上げたかというと、学生にありがちな問題で、教師と生徒の間で認識がズレているという話があがってきました。

 

どんなズレかというと、教師は「分からないことを質問しに来い」という、対して生徒は「分からない所がどこかすら分からない」という状態に陥り、質問自体が出来ないでいる。

 

この現状を打破するための一策として、質問の仕方を学ぶ、思考の量を増やす、というのはそこに繋がっているらしいです。

 

 

さて、長々と講義まとめをしてきましたが。

 

 

私が講義を受けての感想は【自分を持ってない人間には興味湧かないよな。つまらん人間にはならんようにせんとな。】という感じですね。

 

 

ブログを書くにあたってもネタが無いとこんな2000字超の文章を夜中の2時に書けませんよ。

 

 

良い意味で皆さんが忙しくて楽しい、自分がなりたい自分で生きていけることを思って。

 

 

ここまで読んでくださった方、ありがとうございます。

 

 

また是非、読んでもらえたら喜びます(笑)